雄々しき獅子と すばしっこいウサギ、
 一体どこで入れ替わるものなのか。

          〜追憶の中の内緒?篇

     幕間 その2



仏法護持、仏教を守護する尊格“天部”の内でも、
十二天に含まれる特に主立った主幹にして、
そもそもは
バラモン教に於ける宇宙創造の最高神“ブラフマー”が
仏教へと習合したとされる存在で、いわば最強の護神様。

  それが 梵天である。

雲上の天界、極楽浄土の奥向きに様々に広がる、
清かな渓谷を抱えた霊峰のうちの一つ。
地上にあふるる煩悩が届くことはまずあり得ない、
同じ天界であれ、その裾野からは尾根も望めぬほどという
険しき霊山の高みへと設えられた玻璃の宮に、
下界という遠くから ほんの一息で帰って来た彼であり。
手慣れた所作で印を解き、
その身の線に添わせ、限りなく機能的な意匠のスーツから、
甲冑を模した胸当てや肩当ても雄々しいが
あくまでも装飾性の強い簡易なそれらを
条帛や裙の上へと重ねた恰好、
平生のいで立ちである天衣姿へ立ち戻る。
如来や菩薩、聖人にあたる解脱後の僧侶らが同座する場ではない
あくまでも私宮なのでという、これでも砕けた装いだが、
その身へとたたえた威容風格は隠しようもなく。
人ならぬ格であり、絶対の存在であればこそのそれ、
何物へも眸を配っておいでなことの現れか、
それもまた威厳をたたえ、瞬ぎもせぬ強い双眸を。
だが、今だけは、仄かに伏せての物思いに耽っていらっしゃる。

 『わたし、梵天さんの声のほうに覚えがあったんですよ。
  磔刑に課せられ、息を引き取って墓地へ埋葬されてから、
  天へと昇ってすぐの身へ、話しかけてくださったでしょう?』

あまりに思いも拠らない人からの指摘であり、
最強天部ともあろうこの自分が虚を突かれたのも致し方なしと、
落ち着いた今、失笑が洩れるばかりの梵天だったようであり。
それだけならばまだしも、

 『それだけじゃあない。
  その声掛けを聞いたおり、
  私 その声に聞き覚えがあるって思ったんですよね。』

 『私、地上に生み落とされる前に、あなたの声を聞いている。』

 私の父と何かしら言い争っていたでしょう?
 私に課せられたあれこれへ、酷すぎると怒っておられたのではありませんか?
 語彙まで詳細に拾えた訳ではありませんが、
 だからこそ、思い出すこともないままだったのでもありましょうが。

 『そのような非道をよくもまあと責めておられた、
  犠牲となる私を哀れと思ってくださっていた気配が、
  その声には一心に込められていて。』

それがまざまざと思い出されたものだから。
ああ私、この声に覚えがあると感じ、
雲上に“戻って来た”のだという自覚をしもしたのだと。
他でもないイエスその人から、その事実を伝えられた身としては、

 “今の今まで黙っていたのは、彼なりの思いやりか、
  それとも、ある意味 感謝の現れか…。”

確かに、ずんとずんとの昔から、
彼の父上にあたる存在とは、
喧々諤々やり合ったことは数知れずであり。
在す世界は異なるものの、
その位置付けが似通っている尊同士であったから。
干渉はよくなしと判っていつつ、
それでも、あまりの暴論・暴挙へは、
意見するお役目が傍におらぬのならばと、
堂々と詰ることも厭わなかった梵天でもあり。
イエスが指摘したその通り、
地上にあふるる人の子らを 彼の教えへ導くためにと構えた仕儀を知り、
怒髪天となって意見しに行った覚えもしかとある。

 『いくら自分の子息だからとはいえ、
  そうまで傲慢なことが許されると思うのか?
  君がいつまでも支配し、
  それにより苦しめていい存在ではなかろうよ。』

遠い将来に訪のう“終末の審判”に備え、
復活とはどういうことかを人に知ろしめそうという仕儀のため。
幼いうちから神の言葉を説くような、それは尊い和子であるにも関わらず、
復活の予行へと到達するためのように、
やがては磔刑という惨い刑に処されることもまた見通していたらしき彼なのへ。
黙っておれぬと、いつになく激しい語調で意見したのは事実だ。

 『そも、明けの明星とまで謳われた、
  あの賢くも美しかった天使にしても、
  君が少しでもねぎらってやりさえすれば、
  ああまでの反逆を構えはしなかっただろうに。』

そもそもは神に準ずるほどもの地位にいた天使。
上級第1位の熾天使(セラフィム)のリーダーであり、
実行担当である力天使らへの司令官でもあった彼が。
12枚もの羽根をもつことをさえ許されていた大天使が。
神の意志に逆らい、
天界の勢力の1/3をも従えて、聖魔大戦を構えたのはどうしてか。

 『天使らを擦り減るほど使ってでも人間たちを甘やかし、
  幼子のように庇護したおしたからだと訊いているが?』

つけつけと言い放つこちらの声が、
果たして聞こえているのやら。
清楚な白百合に護られし光を、玻璃の器へ丁寧に収めた彼は、
ややあって、うっそりと口うるさい友を見返すと、

 『…選択の余地は与える。』

短い一言、そうとだけ応じたものだから。

 『何を馬鹿なことを。』

言葉の通じぬ壁との対話でも、
これよりまだ張り合いはあったろうにと。
胸の裡(うち)がひりつくような、
そんな虚脱感を覚えたのも無理のないこと。何故ならば、

 『慈悲深くて聡明な和子ならば、
  自分が神の子だと目覚めたが最後、
  選ぶ道もまた決まって来ようというものだろに。』

それが父の意志ならば、自分は避けては通れぬと。
どれほど恐ろしく辛い仕儀であるかを理解し、
理不尽なものであることをも知りながら、
それでも逃げようとしないのではなかろうか。
しかもしかも、それもまた父の意志ならば、
ちょっとやそっとじゃ逃れられはしないということも
覚悟してしまうのではないのかと。

 『なんて狡猾なのだろうな、君は。』

自分が生み出したこの世界、
それを満たして息づかせるべき、最も愛しき存在を導くためだというのなら、
何なら自分が降りてきゃいいものを。
どうしてこの子に全て託し、しかもそうまでの苦しみを与えるのだと、
激しく咬みついたあのやりとりを、

 “当のご本人が、記憶しておられたとは。”

しかも。
それを今になって持ち出したのはどうしてかと言えば。
彼にとっての何にも勝るほどの存在、
普遍の愛を公平に授けるとされている彼が、
それらをひるがえしてでも唯一愛す人と言ってもいいと
胸を張って宣したも同然な対象の、
釈迦牟尼様を苦しめないでほしいからだというから穿っている。

 『梵天さんってば、
  ブッダから“いい人だ”と思われるのが
  苦手なような気がしまして。』

狡猾な取引であるかのように見せかけて、
その実、どうか折れてくださいなという懇願だったことといい、
何とも柔軟で、そしてそして
懐ろの尋の奥深い御仁であることか。

 …そして、

根本の部分は純真なままな彼のその無垢な御心を、
今の今、他には代え難い存在として鷲掴みにしているのが、
仏門の開祖、慈愛の如来様なわけなのだけれども。

 “恋情からの想い人を作るくらい、疚しいことではなかろうに。”

それこそ、詭弁でも何でも、どんな解釈だって持ち出せように。
例えば、滅びの一途を辿らぬために、
生きとし生けるもの全てに於いて、子を成す必要はあるのだし。
それへはあたらぬ 同性への恋情であれ、
愛別離苦で述べてることとは別口、慈愛の派生という形での、
ひとかたならぬ質の“情”というものとして、
あっても持っても誹謗はされなかろうに。

 恐らくは初めてい抱いた想いと、
 だがだが、自身が説いている教えとの、
 矛盾というか温度差というかに、
 他ならぬ本人がいまだに馴染み切れていないがため。
 時には疚しさだったり、時には歯痒さだったりを抱えては、
 もどかしい想いに煩悶したり苦悶したりも多いのらしく。

 “なんでああも生真面目なのだろか。”

お相手が柔軟強靭で前向きな御心をお持ちのイエス様でよかった。
ああまで“おいで”と朗らかに構えておられるというに、
過ぎたる逡巡をついには辟易されたらどうするのだと。
実を言や、その辺りも案じていらしたらしき梵天さんだったようであり。

 “かつてはと言や、
  自分が悟ったこの教えはだが、
  衆生には理解することさえ出来なかろうと、
  広めることをためらっていたような人物だったのに。”

※ブッダ様(旧名 シッダールタ様)は、
 29歳で出家、様々な苦行を試すも解脱には至らず、
 35歳のおり、
 苦行によってではそのような境地に至れないと気づき、
 菩提樹の下にて瞑想。
 その瞑想を妨げんと、様々な攻撃で襲い来たマーラを退け、
 ようやく悟りを開いたとされていて。

悟りの境地を数日ほど堪能した後、
この素晴らしい境地を世間の人々へ伝えるべきかどうかを考えたブッダ様だが。
一応は思案したのち、先のような結論を出し、
伝道して回るつもりも起きなかったとされている。
そこへ梵天と帝釈天が現れ、
衆生(一般の人)に説くように繰り返し薦めたのだそうで。

  今でしょ?とか言ったのかな。(おいおい)

その後、多くの弟子を抱えるほどもの伝道活動を続け、
80歳で入滅した彼は、雲上の天界に迎えられ、
以降は 極楽浄土にて、
仏界の主軸となって迷える人々の輪廻転生を見守り続けた。
救いの手を求める衆生には
自身が休む間も惜しんででも、教えを授けていた彼でもあって。

 “そうですね。頑迷な人ではありましたよね。”

そう、結局は地上へと、
聖女の胎内へと遣わされてしまった
神の子イエスへの処遇を巡る侃々諤々への
向かっ腹が冷めやらぬ あの頃合いはと言えば。
片やの開祖様もまた、
その頑迷さをなかなか収めぬという点で、
微妙な“唯我独尊”状態にあった頃合いで。

 「……。」

窓の外に流るる慶雲を見やりつつ、
ふと当時を思い起こす天部様だった。





     ◇◇◇



入滅した年の頃は、
紀元前という当時には奇跡と言えよう、
八十という高齢だったこともあってだろうか。
その強情さ、もはや頑迷と呼んでいいそれに磨きがかかってもおり。
最も覇気の強かった頃合いの姿をとれる天界において、
三十路という壮健にして充実した体力気力を取り戻せたのをいいことに、
修行だ研究だと寝る間も削って打ち込み続ける開祖様なものだから。

 「あのように根を詰められては…。」

弟子や従者、周囲の皆もただただ案じるばかり。
体は丈夫なのですからとの一点張りで、

 『それより、時間がいくらあっても足りないのですよ。』

経典のみならず、思想や哲学、論理学に歴史書にと、
世にあふれる知慧を記した書の何と多いことと、
何日もかけて ただただそれのみという、
もはや“行”に匹敵しそうな読書に没頭したり。
そうかと思えば、
開祖である私でさえ、多くの苦行を試すという
回り道をゆかねば理解出来なんだからと。
そんな“解脱”という境地、
様々な生き方や生まれである衆生一人一人に、
余さず伝えるにはどうすればいいものかと
常に研究する姿勢を持ち続け。
苦行とどう違うものなやら、
凍るような水の底に沈んでの瞑想を続けたり、
岩山の高みという危険な地に浮かんでの 以下同文だったりと。

 『もしかして、
  開祖たるブッダ様には、
  衆生と同じよな“限度”というものもないのでしょうか。』

進言も助言も、
もはや懇願さえ聞いてはくださらないとの声を聞き。
様子見にと瑠璃宮へやって来た梵天が
やれやれと溜息をついたのも無理からぬこと。

 「四百年以上も此処にいて、
  際限がないと、どうして気づかぬのだろうか。」

聡明な人ゆえの、これも盲点というものか。
未読の書があれば食指が動く、
未知の思想があれば啓蒙刺激を受けてのこと、
首まで浸かり、理解するまで気が済まぬ彼だったようであり。
それでなくともこの時代は、
彼が広めた仏教がそうであったように、
原始宗教に根付く蒙昧な信仰思想から脱しての、
自由な思想から生じた哲学や学問が、地上には数多あふれてもいる。
文明の発達に伴って見える世界も広がり、
それに沿うてのことどんどんと異世界を知るにつけ、
信仰は人の生き方への教えや道徳、モラルのみならず、
のちに支配への道具に利用されるよな、論理学や公衆学の様相も帯び、
教義も解釈も多岐に渡って もはやキリがなく。
そういった汲めども尽きぬ学習への貪欲さが過ぎてのこと、

 “賢明なはずの目が眩んででもいるものだろうか。”

コトが真理や哲学に関わることであるがゆえ、
例えば『四聖諦』のように理路整然と、持論を展開させられる人であれ、
思い詰めが過ぎれば、
自分で自身を追い詰めることにだって成りかねぬというに。
確かに尊敬に値する存在ではあるが、
そういや頑迷なことでも骨を折らされたお人だったのを思い出し、

 “かつて布教をと説得した折よりも、難儀なことかも知れぬ。”

さて、どのように持っていったものかと、
哀訴に押し寄せて来た瑠璃宮の従者の皆様を前にし、
う〜むと思考をまとめんと仕掛かった梵天氏だったものの、

 “…っ。”

不意に届いたとある気配に、
この天部筆頭が いかにも愕然とし、ついつい息を飲む。

 “…そうか。もう戻って来られたか。”

悠久のときをゆく存在ゆえ、
戦乱や進歩・発展などなどという、
地上で撒き起こる様々への熱量に散漫となっていたは自分も同じか、
大切なこととしていたくせに、
うっかり当日だというのを看過していたようであり。

 「梵天様?」

どうかされましたかと問いかけられ、
ああ何でもないと冷静に応じたそのまま、

 「シッダールタにも困ったものだが、
  なに、1日や2日くらいなら
  食わずとも眠らずとも慌てることではなかろうよ。」

もはや生身の人ではなく、天界の存在だから…というのみならず、
生前、様々な苦行をこなして来た剛の者、
そこいらへの自負もあっての無茶でもあろうから、
もうしばらくは、様子見もかねてのこと、好きにさせればいいと言い置いて。
そそくさと宮を立ち去った天部様が、
今この時だけはと なり振りかまわず、
礼装にあたる式服を、
手印を結んでの念じであっと言う間にその身へまといつけ、
神通力にあたろう瞬歩を用いて向かったは。
極楽浄土からは他国にあたろう“天乃国”の大門の前であり。

 「梵天様?」

さすがにこちらだとて、邪悪な妖異や魔物の侵入には警戒するか。
大きな存在の接近を警戒し、
実力ある“力天使”らがさりげなく現れて、素通りは許してくれなんだものの。
そこはそれこそ名のある天部ゆえ、こちらの素性もすぐさま知れて。
仏門の主幹様がどうされましたかと、態度だけは軟化してくださった。
それへ乗じる格好で、

 「…なに、あの方が昇天なさるのだろう?」

ごくごく当たり前の事実という口ぶりで
話題として上らせた梵天だったのへ。
白々しくも誤魔化し隠したとて詮無いこと、
それに、前以て知っている存在は限られることだけに、
それを言い当てたは むしろ…

 「あ、はははい。」

彼らの御主にあたる存在とも
意を通じておいでであって不思議はない格のお人よと、
今になって思い起こしでもしたものか。
居住まいを正した力天使が、

 「ご後見なさいますのでしょうか。」

だったらお急ぎをということだろう、
さっとその美しき腕を行く手へ延べれば、
彼の意を伝えたか、雲が晴れて大門もなめらかに開かれる。
多くは語らず、うむと目礼をだけ残し、
地上からの、それも特別な存在の昇天とあって設けられた場所があるのだろ、
その一角へと開けてゆく宙道を駆ける。
異教の君なだけに、終始 注目している訳にもいかなんだし。
余計な預言など授けては混乱させるばかりだろうからと、
その存在感さえ寄せることあたわずと決め。
例えるなら背中越しのようなほど間接的に
遠い雲上からのみ、
その動向を案じていた神の子が。

  ようやっと、此処へ戻って来られる

神聖な安寧と、論を尽くした説法をたずさえて、
小さき者や迷える人らを救うためにと降りた地で。
愚かな人間らの勝手な思惑から、
激しい迫害と裏切りにあい。
具体的な罪なぞ犯してもない身のまま、
肉をも弾ける凄まじい鞭打ちのあと、
重い十字架を負うて遠い丘まで運ばされ。
そのまま磔刑という惨い刑を受けてのことという、
途轍もなく痛々しい仕打ちに苛(さいな)まれての昇天であり。

 「煌熾布の輿をこれへ。」
 「聖光にての治癒の用意はよしか?」

さすがにこのような、
聖人よりも特別な存在の昇天は、
天界始まってこの方というほどに お初のことだろうから。
受け入れる側も、どこかそわそわと浮足立っていて落ち着きがない。
一見すると、純白の雲が紺碧の空へと広がるばかりな、
それはそれは清かな世界であり。
そんな中、地上が見下ろせる雲海の果てでもあった一角に、
下界の方向から淡い熾光が射して来て、
まずは先触れの天使が ふわりと雲の縁から姿を現す。
それへ続いて雲の縁から浮かんでおいでのその身こそ、
成年男子とまで育たれた姿の神の子、最聖人イエス・キリストその人で。
尊き存在へは畏れ多きことながら、
凄惨な刑に処された身は、直視に耐えぬほどの傷にまみれており。
それらは 人の原罪が成したものゆえ、
消えることのない聖痕と化すはずで。
ああ、これからも痛々しいものがついて回る君なのかと、
見守る梵天の胸へも苦々しい想いが去来する。
あのバカ親父めが、迎えにすら来ないのかと、
くらくらと煮える怒りさえ沸き立ちそうになったものの、

 「……あっ。」

段取りが不十分だったものか、
その御々足が、雲というこの天界の大地へと着いたその途端、
バランスを崩して倒れかかられたイエスであり。
すぐの間近には、子供のような風貌の天使たちしか居合わせず、
とっさに支えるのは無理かと断じたそのまま、腕が出ていたのが梵天で。
どんな審判を受けていたやら、
ずんと痩せ細り、何とも軽い身でおいでの彼なのへ、
そんな痛々しさへも気落ちを覚えかけていたものが、

 「……っ。」

恐らくは…直接ぐいと支えた梵天の頼もしくも雄々しい腕の感触が、
彼を十字架へと抱え上げた刑吏らの荒ぶる腕と重なったものか。
まだ呵責を受けねばならぬのかとの錯覚をしたのだろ、
もう辛いのは御免だと、
反射的な抗いから、振り払おうとしかかる彼であり。

 “無理もない。”

気持ちは判るが、かと言って、
今この手を離せば、傷だらけの御身が倒れ込むばかり。
コツを心得ているのを幸い、
キツくはないよう、極力支えるだけという抱え方に徹しつつ、

  ―― お帰りなさい、イエス様、と

間近となった存在へ、ついのこととて囁いていた。
何かしらの意図があったわけじゃあない。
ただ、どうしても告げたかったのが、
皆してあなたを待っていたのだということ。
傷心でいっぱいいっぱいな今、理解するのは無理かもしれないが、
生まれたところからは ずんと遠いこの雲上にこそ、
あなたをようよう知る者たちがいること、
お帰りを待ってた者たちがいることを、
気づいてほしい知ってほしいと。
こんなささやかなことでも、やがてはあなたを癒せると思えばこそ、
自分がというよりも、皆の代参として、
口を衝くまま、囁いていた梵天であり。

 「………………あ。」

抗いの手がふと止まり、こちらを見上げかかったイエスだったが、
その前には、やっとのことで輿が運ばれて来ており。
さあ治療の間へお運びしましょうと、
大仰なくらいに従者らが取りついての
微塵も揺らすなという丁重さで運び去られてしまったので。
何が言いたかった彼なのかは、判らずじまいの梵天であったのだが。

 「あ、梵天様…。」
 「んん?」

天使の一人がはっとして目線で異常を仄めかす。
視線を辿れば、
自分のまとう裙の腰辺りに赤い染み。
イエスの脾腹の傷からのものだろうと、そこはすぐにも気がついた。
手足へクギを打たれ、十字架の上へさらされて数日、
もう息を引き取ったかどうか、確かめるためにと槍で突かれて出来た傷。
そこからの出血だろう鮮血が、
さっき抱きとめたおり、こちらの衣紋の同じくらいのところへ移ったらしく。

 「浄化を…。」

異教とはいえ神でもある天部への、畏れ多くも穢れにあたりはしないかと。
再びざわりと、浮足立つ気配が立ったものの。
それを小さな笑みにて制すように押し留め、

 「構わない。これは穢れなどではないからね。」

神将のいかにも頼もしい大ぶりな手がさっと表面を撫でれば、
衣紋は元通りの清浄さを取り戻し、その手にはいつの間にか赤いばらが1本。
神通力にて血を転変させたのらしく、

 「では。」

これで役目は済んだということか、
居残っていた大天使らへの会釈を残すと、
それは威風堂々と、その場を立ち去った彼だったそうな。





     ◇◇◇



2000年という昔の一幕を思い起こした梵天殿。
ふと、何やら思い起こされたものか。
大きな剣や重々しい大太刀を余裕で振るう、
しっかとした作りの頑丈そうな手を片方、窓辺へと差し向ける。
そんな雄々しい御手だというに、
何かへ向けて“おいで”と招くような、それは優美な所作の中、
ふわりと泳いだ気配が形を取り、
たちまちのうちに現れたのは、
瑞々しい花弁も麗しい、それは見事な紅色のばらが一輪。

 “…よくもまあ。”

あの御仁には感心させられてばかりいると、
そのばらが本人の代理のような面持ちで、苦笑を向ける梵天であり。

 『ほら見て、ブッダvv』
 『ね? 素敵でしょう?』

他愛ないスノウドームに はしゃいだ笑顔も無邪気なままに。
あれほどの非道を課した父上へも人間らへも、
絶望もせず恨みも抱かず。
一縷も歪むことなくの、
ああまでの無垢純真さを、真っ直ぐ保ち続けている奇跡よ。
子供のようで恥ずかしいと、時に含羞む彼だけれど、
そんなそんなとんでもないとはこちらの想い。
若竹のように撓やかに柔軟、
そんな名の強さこそ、
何物にもへし折れぬ真の強さなのではなかろうか。

 『でも、梵天さんってば、
  ブッダから“いい人だ”と思われるのが
  苦手なような気がしまして。』

彼からのお願い、嘆願として持ち出された代物も、
語り口調こそ穏やかだったが、その内容はといえば、
悪どく利用されたなら、
そのままその立場を危うくすること間違いなかろうものばかりで。
アガペーを惜しみ無く振り撒いた結果として、
人間の原罪をすべて許した あのときにも匹敵するよな、
それはそれは堅い覚悟の下のそれなのだろう。
愛する人だと決めた存在のためならば、
自分の立場が悪くなろうと構うものかと、胸を張って滔々とまくし立て。
自身を見守っていたとする存在を、
なのに脅しにかけるような仕儀を構えまでして。
言わば、捨て身のカードを切った彼であり。
そのくせ

 『私をダシにして、
  ブッダを徒に惑わすような言動は控えてもらいたいのです。』

本人への当たりはどうあれ、
ブッダを大切だとする彼だから、悪いようにはせぬと見越したか。
いやいや、そんな算段があったとしても、
それはブッダの身への保障にしか過ぎぬ。
イエス自身は それは危険な刃の上へと立ったまま、
誹謗糾弾されてもそれでいいとさえ解釈出来そうな、
むしろ非武装でいたのだ、間違いなく。

 どうあっても許せぬというなら、
 ならばブッダが傷つかぬよう、
 後はよろしくとでも言うつもりだったか…

 「……まったく。」

吸い込む息がついつい震えた。
順番が微妙におかしいが、魔王が相手の対峙であったなら
舌なめずりをされつつ、
あのような甘いお馬鹿を言った事実ごと穢れと見なされ、
そのまま、堕天の烙印を押されて、即刻地獄へ曳かれていただろうイエスであり。

 “そして そんな彼を、
  私はきっと全力で庇ったに違いない。”

どこまで強靭な慈愛の人かと、
それを思い知ったからこそ、
シッダールタを任せてもいいと改めて思えもしたのであり。

 『だって、今の私は ブッダが何よりも大切なんですもの。』

臆面もなく言い切った一言は、
事情を知らぬ者には、ただの惚気にしか聞こえなんだだろうけれど。
仏界の高位者相手に
何て危険な一言をと、却ってこちらがぞくりとしたほど。
しかもしかも、

 “……。”

狡いのは自分だともってゆく、さりげない仕立ての優しさが、
揶揄抜きで彼の父御にも似ておいでで。

 そう、あまりに酷な仕儀へと怒り猛った自分だったのを、
 あの父親は 心のどこかでいたく感謝してもいたに違いない。

 だからこそ、
 帰還となった昇天の場に、彼は駆けつけず、
 実は義理堅い梵天に、後見をと任せたのだろうから。

 「さて。あの二人め、どうなることなやらだが。」

自分とイエスの対話をどう誤解したものか、
自身の気配を隠して こそりと立ち聞きしていたブッダだったの、
あっさりと見顕わしてやったのは、せめてもの意趣返し。
微妙に深刻だったかもな内容もちゃんと
話半分にならぬよに、最初のところから聞けていたはずで。
どんな痴話ゲンカを繰り広げることなやらと、
それへくつくつ笑いがこぼれた梵天様であったとさ。







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  *ウチでの独断設定です、申し訳ありません。
   イエス様のお父さんと立場がかぶる梵天さんなので、
   実は対等な口利きをするような間柄、
   喧嘩友達みたいな関係だったらいいなぁと思いまして。
   そして、だったら
   お父様がイエス様へと処したあれこれ、
   そんな立場であればこそ、
   梵天さんくらいは叱ってやれたんじゃあないかなとか
   妄想が広がってしまった成れの果てが、
   こんな腐設定だったのでございます。

   強情っぱりなブッダ様も、可愛い我が子のようなもの。
   そんな秘蔵っ子へも手を焼いてた折も折だったので、
   いっそのこと、
   有り余ってる気勢を傷心のヨシュア様へ傾けさせようと
   ……いや、そこまで企んではなかったのでしょうが。(ふふふーvv)


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